フォーラム 「子育てと昔話」 要旨
いまなぜ子育てと昔話なのか
江口一久
ある語り手がある幼稚園にいって、語りをすることになった。その幼稚園の保母さんが、「舌切り雀」では、婆さんが舌をきるところがあって残酷だから、園ではかたらないでくれといわれた。「一寸法師」では、ちいさな体をもった人のことをあつかうので、人権侵害だといわれたという。最近、道をあるいていると、イヌが糞をしたあと、飼い主がそのイヌの肛門を紙でふいているのをみた。新聞をみれば、自分の子どもを川におとしたとか、子どもが母親と兄弟を焼死させたとか、殺伐としたニュースが続発している。
うえにのべた幼稚園でのはなしと、イヌのはなしと殺人の話のどこかに接点があるのではないだろうか。昔話は語り手が聞き手にむかってかたる。聞き手は語り手に反応をしめしながらきく。こうして、語り手と聞き手は昔話をつうじて、しっかりとした絆でむすびあわされる。昔話には、昼かたってはならないというタブーがあった。昔話のなかでおこったことは、昔話のなかだけの話なのだった。昔話の論理と現実世界の論理を区別するために、夜にそれが昔話だということをしっかり認識してかたられた。それなのに、昔話の論理を現実世界の論理をもって、どこかの保母さんのように批判するというわけだから、世の中どこかおかしい。昔話のなかでは、主人公がおそろしい敵をいとも簡単にころしてしまう。昔話がいきいきとかたられていた時代には、昼間、いまほど頻繁に親殺し、子殺しがなかったのではないか。なぜなら、殺人などの情念は、昔話のなかでうまく消化されていたとおもわれるからである。イヌの尻をふくというのも、どこかで、なにかとなにかの区別がなくなってしまったためではないか。昔話を再生し、子育てにいかしていくことで、さまざまな問題解決の糸口がみつかるのではないか。
伝承文学が支えるもの、伝承文学に支えられるもの
子どもの心を支えるお話、親の育ちを支えるお話
阿部奈南
伝承文学研究者のハンス・レレケは言う。「人間はお話が好きな動物である。」古来人間は、様々な真理をお話の形で語ってきた。仏典や聖書など、宗教書がお話を多用しているのも、そのゆえである。伝承文学は本来「一人で読む」ものではない。語り手(伝承者)が語るお話があり、聞き手(享受者)はその中に入り込み、語り手とともに体験する。昔話であれ、伝説であれ、世間話であれ、伝承されてきた(伝承されていく)お話というものは人と人とのつながりが前提にある。それは、胡散臭く見られがちな「学校の怪談」のような世間話にも当然存在する。
私が勤務する大学は2001年に新校舎へ移転した。外観も古かった旧短大棟のエレベーターには例のごとく「学校の怪談」があった。私自身は初めてこれに乗った時、何とも言えない感じを抱き、その後学生達からその怪談をきいて「なるほど」と思ったものである。さて、新校舎は真新しく、「学校の怪談」などというものを寄せ付けないかのようにぴかぴか耀いていたが、やはり「学校の怪談」は静かに生まれ、広まっていた。何故新校舎の近代的なエレベーターに怪しげな話がまとわりつくのか。それは一言で言えば「違和感」、「ふしぎ」である。他のエレベーターと違い、そこだけは鏡が掛けられた壁を含め三面がカバーで覆われている。「何故ここだけ」「変な感じ」「何かイワクありげ」。人はそれを一人で抱え込んでおられない。「違和感」「ふしぎ」をお話の形にして、誰かと共有しようとする。大学生は、この「エレベーターの怪談」を同じ大学に通うもの同士で語り合うことで、「違和感」「不思議」さらにはそこから生じる「薄気味悪さ」を共有し、ある意味安心するのである。学生達は真剣に顔を寄せ、「えっ、なになに。」「うっそー」「怖〜い」と語り合う。背をそむけあったり視線を交えない状態では決して語っていない。お話を語る者も聞く者も、「場(フィールド)」を共有し、お話をくぐり抜ける。これはお話の伝承の基本に他ならない。 つまり、伝承されてきたお話は、語り手と聞き手が向かい合う中に成立するのである。マックス・リュティなどが指摘した「語りの文法」、例えば「三の聖数」「繰り返しの法則」「発端における最前部優先、展開における最後部優先」なども、語り手と聞き手が共有する場の中から磨かれてきたものである。語り手の表情・口調・身振りとともにお話が聞き手の心に届く時、お話の中に語られた真理も聞き手はもちろん、語り手自身にも等しく届くのである。伝承文学の中でことに昔話は、子育ての中で、「子どもの心を育むお話」と意識されているようである。世間話や伝説が、幼い子どもに理解しにくい、という点もあろうが、学校の怪談などの世間話が極めて情報に近いお話を共有することを目的とし(一度その話をした間柄では、その話をあまり何度も繰り返さない。)、伝説がある目的を持って語られる(必要に応じて何度でも繰り返される)のに対して、昔話はお話を語ること自体を目的とする。
子どもたちを寝かせるための子守り語り
小林 康代
子どもたちを早く寝かせて、自分の時間をもちたい。だから夜8時を過ぎると、我が家には遠いお山から、やまんばが風にのってやってきます。やまんばは、起きている子にやってきて、みつけるとお山にさらっていくのです。私と息子は急いで電気を消し、一緒に布団にもぐりこみ、息をひそめてやまんばが家の前を通り過ぎていくのを待ちます。うまくいけばこの段階で、昼間保育所でたっぷり遊んで疲れている息子は眠ってくれます。 ところが、年齢が上がるにつれてなかなか眠ってはくれません。そこで、鬼やらかっぱやら海ぼうずやら、魔女に悪魔にポルターガイストと、私の知っているかぎりのありとあらゆる怖いものたちが、わが家のまわりで「起きている子どもはいないか」とうろつきまわるようになりました。
おかげで息子たちは、「こわがり」になりましたが、小学校の高学年になる頃には、二人とも母親が作り出した「恐ろしい世界」から無事脱出して、「こわがり」でなくなりました。
子どもを遅くまで起こしておくのは、子どものためにも親のためにも、保育所の保育士さんのためにも良いことではありません。 子守り語りで早く寝かせましょう。
子育ての立場から「赤ずきん」を再考する
桜井由美子
昔話は無意識のレベルでは、子どもの精神的な発達の様々な段階を乗り越えていくのに役立つ。昔話は基本的に、昔話の属する共同体の規範を示す内容を含んでおり、規範を子供たちに分かりやすい形で示すことができる。但し、「農村共同体」が崩壊した現在、とくに都会の子どもたちには、古いモラルは通じない可能性が高いと思われる。
昔話の魅力とは、なんでもあり(変身、魔法、しゃべる動物など)の世界の魅力を十分に楽しむことができること。
プロップに寄れば、昔話の主人公は「探索型」と「被害者型」の二種類に分けられる。女の子が主人公の昔話は、たいていの場合、「被害者型」である。世間一般に知られている「赤ずきん」は典型的な「被害者型」であろう。ところが、フランス口承伝承で伝わる話はペローの最後に狼に食べられてしまう話や、グリムの猟師に助けられる話と違い、赤ずきんが自分で狼を騙し、家に逃げ帰って助かる。それが、ペローやグリムにより、どう「男性の女性に対するファンタジー」を投影させて、変形させられたかは、ジャック・ザイプスが十分論じている。わたしは、変形させられる前の口承の話を紹介し、イヴォンヌ・ヴェルディエの説を紹介しながら、女性の知恵と勇気をたたえる、女の子に自信を与える話であることを示したいと思う。
世界で一番孤立した子育てを強いられているという日本の母親たちに、少しでも元気になってもらえればと思う。
臨床心理学からみた子育てと昔話
杉岡津岐子
臨床心理学を専門とし、面接をつづけている。そのなかで、こちらが普通のことばで説明するより、昔話をかたって、説明するほうが、クライエントにわかってもらいやすい場合がある。あるいは、クライエントに昔話をつかってもらって、説明をうけるほうがこちらにわかりやすいときがある。それは、昔話が人間の直面するありとあらゆる典型的な問題をあつかっているためだといえる。自分も、母親として子育てをしたし、教育者として、子育てに深くかかわってきた。具体例をあげながら、子育てにさいして、昔話の有用性を論じたい。