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村長の旅行記/雑記 その32 2008年 4月
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学校に いきたくても いけない子どもを どうして支援するか (2008年4月13日 記)
二人のけいこさんへ
カメルーンで あなたたちがとった写真をみていると、
目のかがやいている子どもたちが たくさんでてきますね。
どうして、あんなきらきらした目になるのかわかりません。
あの子どもたちについて、あなたたちには、いおうとしていわなかったことがいくつかあります。
わたしたちが日本に帰って一ヶ月のあいだ あれこれかんがえていたのです。
やっぱり、そのことについて、すこしだけ おはなししておこうとおもいます。
まず最初に、写真にでてくる子どもたちのほとんどは、けっして豊かではありません。
子どもたちのなかには、一日一食も口にできない人もいます。
それから、いつもおなじ服をきている子どももいます。
まあ、だいたいの子どもは、食べるものや衣服にこまっていても、学校にいっています。
でも、統計的には何人かわかりませんが、学校にいきたくても、いけない子どももいます。
この子どもたちの家庭の事情はそう簡単でない場合がおおくて、学校にいけないのです。
それで、わたしは そのような子どもたちを学校におくるには どうしたらよいか、
マルアにいるときから、隣のアンドレさんなどと 毎日話しあいました。
子どもが一年間 小学校にいくための費用は、三千数百CFAフラン(4CFAフラン≒1円)なので、
日本円にすると 千円ほどになります。
それなら、その金額をその子どもにわたしたらいいのでしょうか。
いいはずなのですが、それから、いろいろな思いが 頭をかすめだしたのです。
たとえば、子どもが学校にいこうとすれば、その子どもの出生届が必要になります。
子どものうまれたところにある役所にいって、出生届が手にはいればそれですむのですが、
子どものうまれたところが、遠くはなれたところならそこにとりにいかなくてはなりません。
子どもの出生をとどけてない場合には、何人かの証人をたてて、
まずは、出生届を手にいれる必要があります。
出生届をとりにいっても、窓口の人が手数料以外の贈り物を要求してくる場合もあります。
学校に、出生届と必要経費をもっていっても、領収証がでてくるまで、安心はできません。
そこでも、贈り物が必要なこともあります。
日本にかえってきて、ある先生と問題について話をしていたら、
先生は、その子どもの授業料がはらえても、その子どもが鉛筆やノートがかえないなら、
学校にいけないではないかといいました。
そのとおりです。
ですから、学用品のためにすこしプラスアルファをする必要があります。
別の先生とおなじ問題についてはなしていたら、その先生は、
アンドレさんが、どんなに立派な人であっても、キリスト教徒ではないか、
このようなプロジェクトはイスラム教徒もふくめないといけないではないかというのです。
キリスト教徒の子どものお世話はキリスト教徒の人がするほうが簡単ですし、
イスラム教徒のお世話はイスラム教徒のほうがいいでしょう。
現地のスタッフには、宗教差を考慮する必要があるというわけです。
北部カメルーンの小学校には、給食制度などはありません。
朝、ほとんどの子どもたちは、ちいさなアゲパンを数個たべたあと学校にやってくるだけで、
昼ころには、腹ペコになって、学校にやってくるスナックをかってたべます。
これは、日本円にすると7,8円のものです。
それをたべて家にかえるまでの元気をつけるのです。
たいていの親達はこのお金を毎日子どもににぎらせます。
これも、親に余裕がなければ、学校におくろうとするものが、面倒をみてやるべきでしょう。
このようなお金をあつめてマルアにもっていくとなると、
けいこさんたちとわたしたちのお金なら、もっていくということだけですみますが、
この趣旨に賛同してくれるかたがたがでてきたときには、会計報告などをぴっちりする必要があります。
現地でお手伝いねがうかたも、お金にきれい人でなければなりません。
できれば、現地には、わたしたちのだれかがいって、
直接子ども、もしくは、学校にお金をもっていく必要があります。
子どもにであって、子どもが勉強して将来なにになりたいかくらいの質問もするほうがよいでしょう。
その子どもの名前と写真を日本におくることもいいことだとおもいます。
けいこさんたちがもってきて アンドレさんにたくしたディジタル・カメラは そのためもあったのです。
このあいだ ある有名な週刊誌の表紙の裏前面に、途上国の子どもに奨学金を送ろうという広告がありました。
一日コーヒーいっぱいをだすようにという広告でした。
そのとき あのような広告をだすのにコーヒーに換算したら、何杯分をはらっているのか
とおもいました。
それなら、そのお金を 直接子どもたちにおくれないのか とかんがえました。
すべてを手作りでするにしても、現地のスタッフがつかう バイクのガソリン代も捻出する必要があります。
学費ははらってやっても、学校にいかなくなる子どももいるでしょう。
その子どもが マラリアにかかって学校にいけない場合もあるでしょう。
なにしろ 生と死のはざまで ぎりぎりの生活をしている子どもなのですから、
その子どものことを かんがえればかんがえるほど たいへんなことになります。
わたしの身内によると、あらっぽくいえば、一年間 一人五千円くらいで
なんとかなるようにすればということでした。
すべてボランティアーでやって、募金ができるだけ直接に 子どものためにつかわれるように、
そのような金額で、試験的にはじめられないでしょうか。
みんなの名案、珍案をおまちしております。
わたし自身が、あまり学校がすきでなかったのと、
現地の学校では、植民地時代から強制されてきたフランス語や英語でおしえられている
ということに
抵抗を感じていたから、いままで、そのことについて一歩ふみこめなかったのです。
でもいまは、ちがう気持ちです。
小生だって、いろいろ学校のお世話になって今日があります。
学校を卒業した子どもは、自分の名前もかけるようになるでしょうし、
子どもが入院したとき、薬局にいって、処方箋どおりの薬をかってやることも
できるようになります。
市場にいっても、計算ができるので、だまされなくてすむでしょう。
2008年4月13日 江口一久拝
村長の旅行記/雑記 その31 2008年 3月
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マルア莊を衛星写真でみる (2008年3月17日 記)
昨日、コンピューター好きのNさんにであいました。
Nさんは、ほこらしげにマルア荘を衛星写真でみたというのです。
地上を歩いたことのない人が 衛星写真だけをもとに
写真のなかの特定の建物などを同定するのは、むつかしいとおもいます。
Google Earth というプログラムがあって(ウェブでさがしてインストールしてください)、
それでまずは、ついこのあいだどんぱちがあった Ndjamena を入力すると、そのへんの衛星写真がでてきます。
.jpg)
北部カメルーン マルア莊とモスク
まずは、北部カメルーンの写真をだすのです。
その写真のなかにたっているピンの位置こそマルア荘なのです。
つぎにマルアをさがし、マルアの東のボゴ行きの道をさがします。
そうすると、マルアの金曜日のモスクがあらわれるはずです。
その下にあるのが、かっては墓場で、今日では、夕方になるとたくさんの子どもたちがサッカーを楽しむ場所です。
そのへんの風景をおもいだしながら、そこにある道路をたどると、マルア荘につきます。
マルア荘の入り口にはえている インドセンダンの木の上に ピンをつけておきました。
よくみてください。
マルア莊
ヒツジが夜をすごす本来台所である建物もいれると、全部で七つの建物がみえます。
まんなかにある緑は、ブーゲンビリアの木です。
左手下にある緑は、ライムの木。右手下にある緑は、ゴワバの木ですね。
この緑のおかげで、毎朝、小鳥たちがさえずっていましたね。
けいこさん1の宿舎は、左の方。
けいこさん2の宿舎はゴワバのよこでしたね。
この写真は、2008年にとったとありますから、ちょうどみなさんがたがいたころ、
衛星のロボットが一生懸命この写真をとっていたことになります。
地球上のどんな場所でも、こうしてみることができるといいます。
イラクのバクダッドの写真などは、たいへん解像度がよいので、道にたっている人の数もかぞえられます。
さすが、マルアはべつに重要でないので、あまりズームアップをすると、ぼやけてしまいます。
まあ、せいぜいこれくらいの精度ということになるのです。
これをみると、またすぐにでももどりたくなりますね。
でも、あのころよりいまは、温度があがっているので、すこしくるしくなります。
それではまた。
2008年3月17日 江口一久 拝
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事務局から
いやあ、衛星写真がこんなに簡単にウェブで見られるとは・・・
さっそく我が家のパソコンにインストールしてみました。
ドラッグすると画像が拡大されます。写真の精度のいい場所なら、なんでも見えちゃいます。
びっくりしました!
マルアと大阪と比べてみると、緑の量の違いが歴然とわかります。
マルア莊の 鳥の声がきこえてくるみたいです。
村長の旅行記/雑記 その30 2008年 3月
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普通の市民から地球の市民へ (2008年3月11日 記)
帰国後の、ふたりのけいこさんのお礼メールと、村長のお返事です。
けいこさんたちから 村長へのメール
江口先生
お礼のメールが遅くなり申し訳ありません。
帰宅して3日経ちましたが、いたって元気にしています。
それにしましても、今回の旅では初めから終わりまで本当にお世話になりました。
感謝でいっぱいです。
得難い体験をすることができ、そして先生のスゴサと奥深さがよーくよくわかりました。
帰りに寄ったシャティヨン・シュル・センヌもステキでしたが、やっぱり思い出すのはマルアです。
グァバの葉からの木漏れ日がキラキラ輝いて白壁に反射し、小鳥が鳴き、
ゆっくりとお茶を飲む…まさに至福のひとときでした。
先生の散歩にお供するのもたのしかったです。
体調もこわさず、快適に楽しく過ごせたのは、先生の細やかな心配りのお陰です。
ありがとうございました。
マルァ荘がどんなに居心地がよかったか、みんなに言いまくりたいのですが、
みんながどっと押し寄せても先生が困るなあと思案しています。
もういちど心よりありがとうございました。 けいこ その1 より
この道40年になる牛飼い
江口 先生
本当に今回はお金では得られない体験をさせていただきました。
その分 先生は大変だったとお察しいたします。
”マルア荘”に出入りする人たち、近所の子どもたち、
ウンマハーニさんに連れて行ってもらった市場の人たち、
誰一人としていやな感覚を持ちませんでした。
先生のお陰で元長官の家や王様にも会えました。
小鳥のさえずりで目ざめるなんてことは日本にいたら感じられなかったことです。
日ごろの家事、雑事から開放され、今までにないのんびりとした時間を過ごせました。
”マルア荘”での生活があまりにも快適だったので、みんなに言いふらしたいのですが、
そんな事をしたら先生がきっと大変だと思いますので、そっとしておきます。
次の機会も どうぞよろしくお願いいたします。 けいこ その2 より
マルア莊入口 (けいこその2撮影)
村長の お返事メール
けいこさん
お礼のメールありがとう。
無事でなによりでしたね。
かえりには、スムースに飛行機にのれませんでしたが、あれは、まだスムースなほうなのです。
あの国の人たちは、ガソリン代の高騰のため 苦しんでいるのです。
日本の収入の何分かの一で、日本とおなじ値段のするガソリン代を はらわされています。
そんなバカなことはありません。
あの騒動は、それなりの理由があります。
ほんとうのこと だれも、飛行機をおくらせようとして、遅らせた人はいません。
でも、ひとたびマルアまでやってくると、よかったでしょ。
わたしがあそこにいきだしてから、41年になります。
その理由の一部を ご理解いただいたのではないでしょうか。
また、機会があれば、おともしたいとおもいます。
あそこ、二人一室にすれば、最高七人まで 宿泊可能です。
あそこに宿泊せずに、ホテルにとまり、あそこで、食事だけをすることもできます。
希望者がいればぜひ といいたいところなのですが、あなたがたのように
がんばって添乗員なしでこられないなら、すこし値段がかさみますが、添乗員をつけることもできます。
いずれにしろ、あそこのよさ、すなわち、わたしの原点をしっていただき ありがたくおもっています。
また、マルアでおあいしましょう。
2008年3月11日 江口一久
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事務局から
帰国後のけいこさんたちに、昨日会いました。
いやあ、村長を見直した! ムッシュ・エグチはすごい!
マルアがあんなにいいところだとは思わなかった! ・・・と えらい勢い。
普通の市民の目で見た 村長のおられるアフリカを、
近いうちに ホームーページにアップしたいと思います。 お楽しみに!
村長の旅行記/雑記 その29 2008年 3月
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普通の市民と普通の市民の交流 (2008年3月1日 記)
なんとなくやっとのことで、二人のけいこさんたちといっしょにカメルーンから無事日本にもどってきました。
二人のけいこさんたちは、これで一ヶ月たらず日本を留守にしていたことになります。
それにしても、二人は、よくも順調に、関空―パリーヤウンデーガルアーマルアの旅をやれたと感心しています。
今日の新聞をみてみると、石油が1バーレル103ドルとありました。
この世界的な石油高が、ドゥアラやヤウンデの騒動の原因なのです。
収入が日本の何十分の一の国で、日本やヨーロッパなみのガソリンを
かわせられているのですから、文句もいいたくなります。
カメルーンは石油産出国です。
それにもかかわらず国内でのガソリンの価格をグローバライゼーションの名で、国際水準にとどめているのです。
ガソリンの価格がたかくなれば、人や物の移動がコスト高になります。
まずしい国での生活はどんどんむつかしくなっていきます。
あの騒動は、当然の帰結です。
二人のけいこさんは、とんでこない飛行機をまつためにガルアの空港で二日すごし、
ヤウンデについても日本大使館からの勧告によって、ホテルに二日間足止めされて、
世界の経済のうごきを自分の目でたしかめました。
今朝、マルアに電話したら、今週になって急にあつくなってきたそうです。
二人のけいこさんたちに、暑さも経験してほしかったのですが、二人のいるあいだは、ずっとすずしく、快適でした。
ところで、この二人がはるばるマルアまで旅をしたことには、どのような意味があるのでしょうか。
ちかごろ石油がたかくなったり、9/11以降、空港の検査がきびしくなってきたりして、航空券に付帯する費用がかさみます。日本からパリくらいまでの旅ならそうたかくはありません。
パリ以降アフリカのあまりポピュラーでないヤウンデ・ンシマレン空港までとぶのは、
日本からパリまでとぶよりずっとたかくつきます。
このようなお金をつかってまでして、小生のフィールドのマルアまできていただいた意味をかんがえてみたいのです。
それは、ひとことでいえば、「ふつうの市民とふつうの市民の交流」の大切さということにつきるのではないでしょうか。2003年には、マルアのふつうの市民、ウンマハーニおばさん、アリウムさん、ジュレイハさんが
「西アフリカ おはなし村」にやってきて、日本のふつうの市民と交流しました。
学者や政治家など特殊な人の交流はよくあることです。
でも、ふつうの市民とふつうの市民が交流する機会というのは、そうたくさんあるものではありません。
ふつうの市民が自分の目、耳、体で相手側のふつうの市民たちの生活を体験することは、
たいへん有意義なのではないでしょうか。
学者やジャーナリストが書くものや、テレビなどをつうじてあちらの生活の一部をしるということもできますが、
この地球の理解のためには、自分で体験するのが一番ではないでしょうか。
庶民感覚でもって、あちらの庶民の生活を理解するのです。
たとえそれが、表面的なものであっても、まずは、自分の体で体験することは、貴重だとおもうのです。
ウンマハーニおばさんも、どんどん年をとっていきます。
わたしも、マルアにいきはじめてから41年目になります。
ですから、二人のけいこさんたちがやってきたのは、たいへんいいことでした。
現地では、十分なお世話もできませんでしたが、みんなそれぞれ最善をつくしておもてなしをしたつもりです。
ふたりのおかげで、わたしもさびしくおもうことがありませんでした。
つぎに、もうひとつの意味をかんがえたいとおもいます。
地球おはなし村では、「かたりあい、つたえあい、ふれあい」をモットーに活動していますが、
マルアで、このモットーそのままのような生活がくりひろげられているのをみてほしかったのです。
きっと、それがわかっていただけたとおもいます。
やっぱりフルベ族のいうとおり、「井戸のなかの魚は、川をしらない」なのです。
旅をすれば、地球には、自分たちとは、ちがう生活をしている人たいるのです。
ちがう生活をみることで、わたしたちは、ゆたかになることがではないでしょうか。
たくさんいいたいことがあるのですが、まだ時差のおかげで眠いのです。
とりあえず、帰国のご報告のみにて失礼。
2008年3月5日
お日さまがてっているのに、雪のふっているアイルランドみたいな塩屋にて
江口一久拝
近所の女性 ウンマハーニおばさんと孫 家畜市場のウシ
村長の旅行記/雑記 その28 2008年 3月
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シャティヨン・シュル・センヌ から (2008年3月1日 記)
夕方、ヤウンデのホテルを一大決心して、出発。
女性地位向上省のサイブ・ナスルさんと、日本大使館の小林未央子さんに別れを告げました。
まだ、町中、警備の兵隊だらけでした。
ヤウンデ空港は、手前の坂のしたで下車。
おもい荷物をひきずって、丘のうえにある空港に到着。
あとは、万事スムーズにすすみ、ドルアラ経由で、翌朝、パリ着。
パリ空港からリオン駅にむかいました。
そこで、西アフリカおはなし村のときにも応援にきてもらった
パリ在住の熊瀬川紀さんにでむかえてもらって、ワインで朝食。
そのあとあのディジョンからしで有名なデイジョンにむかいました。
昼食後、シャティオン・シュル・センヌにいき、
そこで、西アフリカおはなし村のテープカットをおねがいしたナサニエル・シエ牧師にお出迎えをしてもらいました。
ついてすぐ、シャティヨン博物館をほうもんしました。
館長さんのご案内で懇切丁寧な列品解説をうけました。
この地方は、むかしケルト族がすんでいたそうですが、
このケルト族がギリシャ、ローマなどの文化と交流して、栄えた様子が展示の中心でした。
この博物館友の会の会長さんのお孫さんが神戸市出身の女性と結婚していたりして、たいそう親日的でした。
二人のけいこさんたちは、博物館で写真をとるとのひかえていました。
きょうは、これからこの付近をまわります。
きょうは、気温が十度。
写真は、二人のけいこさんたちと熊瀬川さん。
それに、むかしの金持の住居だったシャティヨン博物館。
2008年3月1日 シャティヨン・シュル・センヌにて 江口一久拝
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やっとこさでヤウンデ到着 (2008年2月28日 記)
月曜日の前半は、ぼろ車で、マルアからガルアへ移動。
後半は、空港で、偽情報にだまされながら、こない飛行機を待機。
日が暮れてもこないので、いやがるカメルーン航空と交渉のすえ、ガルアのホテルに到着。
ガルアのホテルで一泊。
火曜日は、ガルアの空港でこない飛行機をまちました。
マルアでつくってもらった牛肉のから揚げをたべて一日をすごしました。
二人のけいこさんたちは、びっくり仰天。
飛行機を二日もまつなんて経験がないからです。
さすが夕方になると、飛行機がきそうだといううわさがながれ、緊張がはじまりました。
空港職員も、カメルーン航空の職員も、一切なにもしらせてくれません。
かれらとて、ほんとうのことは、なにもわかっていなかったからです。
そのころガソリン代高騰に反対するデモがドゥアラでおこっていました。
デモは、暴動になり、すべての商店、役所、学校などがしまってしたのです。
タクシーも、バスもとまりました。
すべての市民は、移動の自由をうばわれていました。
だから、ドゥアラの空港職員も、パイロットも、移動できなかったのです。
暴徒は、走る車に石をなげるからです。
ある車には、火がはなたれました。
わたしたちが、飛行機をまっているあいだ、ドゥアラでは暴徒があばれまわっていたのです。
数人が犠牲になりました。
でも、さすがみんなの努力があって、飛行機は晩の十時半に到着しました。
そのころになるとみんなつかれきっていました。
飛行機がガルアをでたのは、十一時半。
わたしたちがヤウンデについたのは、一時前。
ヤウンデについたものの、街にいく車がありませんでした。
でも、最後の最後まで、まちました。
ようやく二時くらいに車にのって、ホテルにつきました。
水曜日の朝、朝食後散歩にでようとしたら、みんなにとめられました。
日本大使館の警備担当の人が防弾チョッキをきて、ホテルにあらわれ、一歩もホテルからでるなといいました。
それで、これもチャンスかなあとおもって、みんなで一日中ホテルにいました。
水も、ビールも、食事も、ホテルでは、外の数倍。
でも、そんなものかなあとおもって、じっとしていました。
デモ隊がでると、警官隊が発砲します。おそらく空砲なのでしょう。
ホテルをでることができなかったおかげで、ポプラ社版「体験取材」「世界のくに」の取材のためにきている
渡辺一夫さんや、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所・研究員の亀井信孝さんにであいました。
偶然のことですが、渡辺一夫さんの通訳をしている、そのまたむかし大阪外国語大学で日本語をならい、
日本の大学をでたあと、在日カメルーン大使館でながいあいだつとめていたンジョーヤさんにあいました。
もう二人ともよろこびました。
ここ数年であうきかいがなかったからです。
ヤウンデの町にも、ドゥアラでおこったこととおなじことがおこっています。
ホテルの職員は、足をうばわれ、ホテルの床で夜をすごしました。
でも、ご安心ください。二人のけいこさんは、ちゃんと元気でいます。
今夜のエールフランス便で、パリにでようとおもっていますが、
前述のンジョーヤさんが、なんとかおくってやるといってくれているからです。
知人がいるのは、ほんとうにありがたいことです。
でも、空港までどうすれば無事にいけるのでしょう。
きのうデモ隊が、国歌とサッカーの応援歌をうたいながら行進していた場所の写真をおおくりします。
くもっているのは、サハラ砂漠からはるばるやってきた埃のおかげです。
それではまた。
フランスについたら、その後どうなったかご報告いたしましょう。
とどのつまり、騒動の根本原因は、特定の人たちによる富と権力の独占なのです。
こまったことです。
2008年2月28日 江口一久拝
事務局から ![]()
けいこさんたち、行きも帰りも大変でしたね。
でも、なんとかご無事なようで、なによりです。
ミャンマーでも暴動がありましたよね。
原油の高騰、食料の値上げ・・世界中でこんなことがどんどん増えてきて
きなくさいことに発展していかなければいいのですが・・・
村長の旅行記/雑記 その27 2008年 2月
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さよならマルア (2008年2月25日 記)
家のそとには、相変わらず埃をふくんだ北風がふいています。
現在時刻は、4時半。 本日の予定は、マルア飛行場に8時ころ到着。 そのあとチェックイン。
チェックインしたにもつは、空港のなかでまっているチャーターされた小型バスにつまれます。
おそらくチェックインを9時半ころまでにおえるでしょう。
そのあと、乗客は搭乗券をもってその小型バスにのります。
小型バスは穴だらけで、しばしば追いはぎのでる道を南200キロのところにあるガルア空港にむかいます。
空港につくと、まちつかれたガルアからヤウンデや、ドゥアラにむかう乗客たちといっしょに
ボーイングの大型機にのります。
カメルーン航空に、あと一機ある中型機は、つかれてガレージにはいっているか、借金のかたにとられているでしょう。
だから、マルアまでこられないでいます。
うまくいけば、本日の夕方までに、ヤウンデにつけます。
ついたあと、28日のパリ行きの夜行便にのるまで、ヤウンデにいます。
二人のけいこさんたちは、写真や手話の名手。
この二人のおかげで、後半、さみしくありませんでした。
昨日まで、わたしは、ドゥルンガスおばさんにお話をしてもらいました。
今回、全部で、262話かたってもらいました。
よくもまあ、わたしのために忍耐強くここまでつきあってくれたとおもっています。
それではまた。
わたしたちの無事をいのっておいてください。
このまえいったジングリアのめずらしい写真をおおくりします。
二人のけいこのうちの一人のものです。
水のない北部カメルーンで、水にはいって水をのんでいる山地の牛です。
渇水期のためにつくったダムにたまった水をのんでいるのです。
2008年2月25日
「けいこ」 さんたちと行く、現代化するヒデ族の里 (2008年2月23日 記)
こちら二人のけいこさんたちはいたって元気です。
朝から晩まで、ここの人たちと交流しています。
水曜日には、モコロの市場をみたあと、ジングリアというマタカム族の里にいきました。
ものすごい北から吹いてくる風のおかげで、視界500メートルほどでした。
いっしょにいったマタカム族のアンドレさんの案内で、そのへんをまわりご満足でした。
ここは、訪れる人もすくないので、ゆっくりすることができます。
わたしがずっとまえにかいた『最後の裸族』をよんで、
二人のけいこさんたちが、その舞台になったトゥル村にいきたいというので、ひさしぶりにいってきました。
この村には、数千人がすんでいます。
この数千人は、ヒデ語をはなし、女たちが、ヒョウタンを鉄兜みたいにしてかぶるので有名です。
二人は、『最後の裸族』にあるような生活があるのを期待していたようですが、
かえってきたあとの二人の感想によると、あのヒョウタン以外あまり他の市場とかわらないそうです。
いまでは、あのこの世で一番シンプルな生活をしていたヒデ族の里にトタン屋根のコンクリートの家がたっています。
人びとは、どこにでもみられる服をきています。
どこからか、首都ヤウンデできけるような音楽がながれてきます。
電気がないので、おそらくバッテリーをつかっているのでしょう。
いっしょにいったアンドレさんが、それを「現代化」だといいました。
そうなのです。市場でものをうっている女たちも、簡単なフルフルデ語をはなします。
殺鼠剤をうっている青年もいます。トゥーリストたちの姿をみて、自称ガイドがやってきます。
こんな変化が現代化、グローバリゼーションなのでしょう。
市場で、ルズとよばれるモロコシビールをのみながら、老女と昔のはなしをしました。
わかい人は、未婚の女性のつけるパツァパツァという陰部隠しのことをしりませんでした。
わたしの目にとっての現代化は、この老女のいきてきた現代化とはちがうでしょう。
もう昔の儀礼の歌をしっている人の数がへってきました。
わたしは、モロコシビールをのんで、昔の儀礼の歌をうたいながら、老女たちとおどりました。
二人のけいこさんたちは、それをみてご満足でした。
今日みられる女たちのかぶっているヒョウタンには模様をつけたあと、赤に着色してうえ、
アイセドラ(カヤ・セネガレンシス)の油がぬってあります。
この模様、着色はフルベ族の影響です。
これも、現代化の一部といっていいでしょう。
あと数日で、マルアから首都ヤウンデまででます。。
2008年2月23日 江口一久拝
ヒデ族の市場でとった ふたりのけいこさんたち
事務局から ![]()
いや、おふたりさん、お元気そうですなあ。
あれこれと村長をふり回しておられるのが、手に取るようにわかります。
おたよりの中にあるヒデ族というのは、1978年、大日本図書の『アフリカ最後の裸族−−ヒデ族と暮らした100日』で
村長が紹介された、あの人達です。
30年前の彼らの、シンプルイズベストといった生き方が、若き日の村長の瑞々しい視線で描かれた、
名作中の名作です。 ぜひ皆さんに読んでいただきたい1冊です。
でも、あのころとはずいぶんくらしが変わったようですね。
(だからこそ、この本は今 皆さんに読んでいただきたいのですが・・
もう1冊、1975年日本放送出版協会の『フルベ族とわたし 西アフリカ民話の世界』も・・)
今、世界は怖ろしいほどのグローバリゼーションの波におそわれ、
アフリカでも日本でも、その土地の、そこで暮らす人々にしかない特徴が駆逐され、
だれもが同じものを求め、生活はどこでも同じようなものに変化しつつあります。
それが次世代にどんな結果を招いていくか、答えを知っている人はまだ一人もいません。
吉と出るか、凶とでるかさえ・・・
そんな中で大事なことは、その方向性に敏感になること。そして、素早く対応することでしょう。
もし病気の兆候が出たなら、とりかえしのつかないところまで漫然と放っておかない・・・
イージス艦の事故じゃないですが、遠くを見るレーダーより、
ヒトをはじめとした 生物の生死にかかわるものを見分けられる目、
そして、すぐにそれに反応して動ける人間の体と心の健康性こそが、
一番大切なものだと思います。
村長の旅行記/雑記 その25 2008年 2月
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1週間目の 「けいこ」 さんたち (2008年2月12日・18日 記)
二人のけいこがマルアについてから一週間がたちました。
二人は、いままでの知識を総動員して、あそこにいけとか、あれがみたいとかいっています。
一昨日は、ボゴ村の木曜市場にいきました。
ボゴ村というのは、民博のヴィデオテークでも、有名な地名です。
現在は、昔の番組にでてくるブーバ王ではウスマーヌ王がいます。
ボゴ村の市場はこの地方最大の牛市があります。
市場には、まだ建物がたくさんたっていないので、たいへん伝統的な感じがします。
この市場にこの地方のフルベ族、カヌリ族、ムスグム族など大勢がやってきます。
王さまの家来のマガージのお世話で、市場にはいったので、だれにも邪魔されずにすみました。
二人のけいこさんたちは、ヒョウタンをかったり、写真をとったり、たいへんいそがしい一日をすごし、ご満足でした。
2008年 2月12日
ボゴ村の市場にて
二人のけいこさんたちは、どこでしらべたのか、ルムシキ、ルムシキとさけぶので、
ジュレイハさんと、アンドレさんについてもらって、ルムシキにいってきてもらいました。
ルムシキは、カプシキ族のすむ地域で、ナイジェリアとの国境にあります。
二人のとってきた写真のとおり、奇岩で有名です。
ここは、観光地なので、子どもたちは、観光客に金をだせとか、ペンをくれとかたいへんなところです。
二人は、そこにあるカンプマンとよばれるホテルがえらく気にいり、記念撮影をしたそうです。
ナイジェリア側は、平原になっています。
ですから、見晴らしがいいのです。
二人は、悪路をものともせず、よろこんでかえってきました。
2008年2月18日
村長の旅行記/雑記 その24 2008年 2月
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アーイの再婚 (2008年2月12日 記)
先週の日曜日、アーイの二回目の嫁入りがありました。
行き先は、ナイジェリアのアーダマーワのフルベ族の都ヨーラです。
ここの王さまのセクレタリーをしている王子のところにいったのです。
この王子、アーイの父親には新車、アーイにも車をおくったといいます。
嫁入りには、近所の女たちがただで車にのって、外国旅行ができるというので、でかけていきました。
総勢五十人がむこうにいって、一週間飲み食いをしてかえってきました。
それぞれ、一万五千フランと、布地をもらってかえってきました。
一万五千フランといえば、日本円で三千数百円ほどなのですが、ここの人たちにとっては、大金です。
この金をなぜもらったかというのが、いまここの人たちのあいだでささやかれています。
第一に、王子の力をみせるためでしょう。
それから、もう一つは、アーイが王子との生活がいやになって、マルアにもどってくる可能性を封じるためです。
あんなにしてくれたのに、おまえさんは、かえってくるのかと、近所の女たちにいわせるためです。
だから、贈り物の新車にしろ、女たちがもらった法外な金は、すべて、アーイの自由を奪う金なのです。
こういう金は、フルベ族がいやがる金なのです。
やはり、いくらかんがえても、気の毒なアーイです。
アーイの子どものころの写真がありますから、そのうちにおみせしましょう。
それにしても、女性がもののようにして、あつかわれるのをみているのは、いやなことです。
2008年2月12日 江口一久拝
村長の旅行記/雑記 その23 2008年 2月
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やってきました。二人の「けいこ」さん (2008年2月11日 記)
アフリカカップの決勝戦が昨晩ありました。
二人のけいこさんたちと、ここでしずかに食後いこっていたけれども、
ついに、観戦をつづける人たちの歓声がきけませんでした。
残念ながら、カメルーンはエジプトに終了十五分前に一点いれられてまけてしまいました。
もともと、初戦の相手は、エジプトでした。
カメルーンは4対2でまけました。
カメルーンは今年はだめだとおもっていました。
けれども、ザンビア、チュニジア、ガーナなどに勝ち、決勝戦にのぞみました。
フランスのスポーツ記者は、「カメルーンはどん底からはいあがってきた」といわれたりもしました。
二人のけいこさんたちが、ヤウンデに到着したときは、ガーナにかったときで、
若者たちが街にあふれ、けいこさんたちがのった車に喜びのサインをおくりました。
けれども、けいこさんたちは、暴徒におそわれたとかんちがいしたらしいです。
サッカー王国カメルーンも、これでしずかになりました。
きのうかっていたら、あすは、祝日になるところでしたが、あす、店もひらきます。
2008年2月11日 江口一久拝
とりあえず、無事到着、二人の「けいこ」さん
村長の旅行記/雑記 その22 2008年 2月
二人の「けいこ」がマルアにやってくる (2008年2月7日 記)
おはなし畑のけいこさんと、音楽畑のけいこさんが、よしこさんといっしょにマルアにやってくることになっていましたが、昨日、関空からインチョンについた段階で、よしこさんの体調がくずれてしまいました。
インチョンの空港のドクターの診断で、よしこさんは、パリにいく飛行機にのらず、
大事をとって、昨日、関空にもどりました。
今朝の電話では、もう元気になったということで安心しています。
よしこさん一人で旅をやりなおすかどうかは、体にきいたうえということになります。
ですから、こちらは、二人の「けいこ」さんをまっています。
うまくいけば、夕方、二人は、カメルーンの首都ヤウンデにつきます。
ヤウンデでは、名古屋大学大学院 嶋田義仁教授の学生だった小林未央子さんがでむかえてくれることになっています。
小林未央子さんは、現在、ヤウンデにある日本大使館ではたらいています。
こんな人がいるから、急遽、ンジャメナ行きから、ヤウンデ行きに切符を変更することができたのです。
二人は、ヤウンデで、国立民族学博物館にいたサイブ・ナスルさんにもあうことになっています。
うまくいけば、あすの便で、ヤウンデからガルアまでとんでくることになっています。
カメルーンのこと、うまく飛行機がとぶかどうかはわかりません。
でも、二人の「けいこ」さんには、世界中どこにでも通じる携帯電話があります。
その携帯電話には、メールの機能もついています。
だから、いまのところうまく連絡がついているのです。
昨日は、パリのホテルから電話があり、受付嬢の話を通訳しました。
これも、携帯のメリットです。
これからの様子、またかきます。
江口一久拝 2008年2月7日
同日
ドゥルンガスおばさんの昔話 200話達成
みなさんお元気のこととおもいます。
こちら、数日まえから急に温度があがり、連日35度をこす暑さです。
でも、朝晩は、25度くらいですから、すごしやすいです。
こちらの生活はあいかわらずワンパタンで、単調そのものです。
単調なことは、ありがたいことです。
マタカム族の語り手ドゥルンガスおばさんは、毎日、あいかわらず2,3話ずつ、わたしにかたってくれています。
たとえすこし風邪をひこうとも、すこし頭痛があっても、うまずたゆまずかたっています。
こちらも、熱心にかつ、あつかましく語りを注文しています。
話をきいたあと、その録音を一日かけて、
隣のアンドレさんや、ウンマハーニおばさんなどといっしょにききなおしています。
ありがたいことに、今朝、200話目をきくことができました。
墓場のうえにたっている家がゆれうごいて、地中にきえてしまう話です。
ご先祖様が墓場からでてきて、ふしぎなことをおこなうという話です。
むろん、200話を達成できたといっても、それで話をきくのをやめるつもりはありません。
これからも、熱心にきこうとおもっています。
とはいっても、ここの滞在も、あと17,8日ですから、
こちらが健康で、ドゥルンガスおばさんが元気なら、いくつかきくことができるとおもいます。
一つ応援をおねがいします。
200話達成記念写真
今朝、二人のけいこさんが、パリから電話をかけてきました。
いま、飛行機にのって、ヤウンデにむかっています。
この二人の「けいこ」さんにも、ドゥルンガスおばさんの話をきいてもらおうとおもっています。
写真は、今朝、うちではたらいているマスムゥッドさんがとってくれたものです。
それではまた。このよろこびをみなさまとわかちたいという気持ちで、このメールをかきました。
2008/02/07 江口一久拝
事務局から ![]()
なんとまあ、あっというまに200話ですか!
ひとむかし前の日本では、このような方もおられましたが、今はもうおめにかかれないでしょうね。
まだまだ おはなしは増えていきそうな勢い。 期待してます。
それにしても、よしこさん、残念でしたね。
まあ、ふたりの「けいこ」さんのドタバタ話を楽しみに お待ちしましょう。
村長の旅行記/雑記 その21 2008年 2月
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戦乱のンジャメナ (2008年2月5日 記)
きのうまで、このメールをおくるのをためらっていました。
というのは、地球おはなし村の村民三人が、今週木曜日にチャドの首都ンジャメナに到着予定でしたからです。
三人がンジャメナをさけて、べつルートでくることになるまで、この話をふせておこうとおもっていたのです。
じつは、ンジャメナはいま戦乱の都になっています。
といっても、街のほとんどが日干し煉瓦の埃だらけの家だけで、首都とよべるほどの立派な建物はわずかです。
ンジャメナのよこにはロゴン川がながれています。
この川の対岸にカメルーン川のクスリがあります。
むかしは、ここに渡しがあって、丸木舟がいききしていましたが、いまは、橋ができています。
ンジャメナはチャドの西の端にあります。
ンジャメナの北、東、南には、広大な国土がひろがっています。
東の端はスーダンのダルフールと接しています。
ご存知のようにスーダンのダルフールは戦乱の地です。
つい一週間前まで、チャド国内にいる反政府軍が、このダルフールの一部と、チャド東端に展開していました。
そこで、軍事訓練などをしていたのでしょう。
ところが、チャドの東部に数万人の武器をもった欧州軍がチャド東部に配置され、
反乱軍を監視するということが、きまってから、反乱軍は、一気に首都をめざして、侵攻してきました。
トヨタのぴかぴかの新車三百台にのった反乱軍の兵士たちが、
はるばるスーダンとチャドとの国境から首都ンジャメナにやってきたのです。
かれらは、先週の金曜日まで、首都から50キロとも、100キロともいわれるところで様子をみていました。
さて、反乱軍が首都にせまったというので、欧州連合軍のンジャメナ派遣は空港があぶないというので、一時中止。
空港は、民間の飛行機の利用禁止。空港は、軍事空港にはやがわり。
ガボンにいる仏軍の輸送、民間人のガボン一時退去などのためにつかわれました。
それでも、フランス政府にチャーターされたエールフランス機が空港にいたそうです。
土曜日には、反乱軍が街に侵入し、大統領邸に近づきました。
街では、政府軍、反政府軍が交戦しました。
町中は大混乱。
街の住民たちは、橋をわたってクシリ側ににげてきました。
そのあいだに、フランス政府は大統領と交渉。
大統領は、反乱軍に席をゆずらないということになりました。
戦争は、うわさばなしの総和です。
大統領は、老母に相談したら、老母が、男なら最後まで戦えといったことになっています。
反政府軍は、そのまま街にいると、相当の死者がでるので、
死ぬのがいやなものは、しばらく街をあけるようにといって、街のそとに退去。
街には、市場も、学校もありません。
もちろん、家のそとに一歩でたら、どちらかの側の兵士にうたれてしまいます。
戒厳令というやつです。町中の外国人は一時退去。
フランス人たちは、ガボンへ。
反乱軍の後ろに中国政府がいるということになっているので、首都にいるすべての中国人はマルアにやってきています。
日本人のシスター6人は、貧乏人といっしょにンジャメナにとどまっているそうです。
先日、そのうちの一人シスター・アリゾノさんにであいました。
シスターは、「わたしたちはなにがあっても、しずかにここにいるだけです」とおっしゃっていました。
一度出家したら、えらく強くなるのですね。
どうか、このような人たちがいることもおぼえておいてください。
じつは、ンジャメナには、空港と大統領を警備するため 1400人のフランス軍が駐留しています。
このほとんどが外国人の傭兵です。
その大部分が戦争がなくなって職をうしなったロシア人、ウクライナ人、セルビア人たちです。
日曜日にマルアのホテルでジョセッペ神父の誕生日のお祝いの会食がありました。
そこには、たくさんの外国人たちがいました。
ほとんどが、ンジャメナからにげてきた人たちでした。
おかげで、ホテルは大繁盛。いやなことですね。
もう戦争は終わったという人もいます。
いやいやこれからという人もいます。
これからどのような展開になるのかわかりません。
わたしは、欧州の人たちは、うまいことしたとおもっています。
欧州軍が反乱軍を監視するためにやってくるといううわさをながし、かれらを首都におびきよせたのです。
かれらが首都にせまったから、欧州軍の派遣をみあわせる。
反乱軍と政府軍をたたかわせる。
そのどちらかがかつ。
そうすれば、欧州軍を派遣せずして、チャドから反乱軍がきえる。
まあ、そんなところでしょう。
でも当分のあいだ、ここマルアから国境の町クスリまでの道路は危険でいっぱいであることは、まちがいがありません。
政府軍および、反政府軍の兵士のなかには、
戦争がいやになって、武器をもってカメルーン領にながれてくる人たちがいるからです。
結局 村民三人は、カメルーンの首都ヤウンデ経由でやってくることになりました。
ご安心ください。
まあしばらく、おっそろしい緊張がつづきます。
2008/02/05 江口一久拝
・・・追伸・・・
ンジャメナの道路には、避難民があふれています。
みんな、カメルーン側に避難しようとしていますが、道幅も、手段もかぎられているのでそうなるのです。
マルアにも、その一部が流入しているので、マルアの食料の値段があがっています。
隣国が戦乱なのに、こちらでは、サッカーの観戦をしています。
カメルーンはチュニジアに3対2でかったといってよろこんでいます。
なんということなのでしょう。
・・・追伸その2・・・
ジュレイハの姪が ンジャメナにいるときに、反乱軍がおしよせ、そのまま逗留さきで、じっとしていたそうです。
道路には、人の腕や死体がころがっていたそうです。
すこししずかになったので、逗留先の子どもたちをたのまれて、マルアにつれてきています。
しばらくマルアにいることになるでしょう。
学校も、市場もなにもないそうです。
左端がジュレイハの姪。
子どもたちは、ンジャメナから避難している。
事務局から ![]()
極楽のマルアの すぐおとなりが 戦乱のまっただ中とは・・・
まあ、三人はきっと無事到着して、弥次喜多旅行記がつづられることでしょう。
アフリカでは、というより、戦闘が珍しくない地域では、火の粉が我が身にふりかかってくるまで
サッカーの勝敗など、目の前の日常生活のことにあけくれる、、、私たちだって同じようなものです。
その気持ち、わからないではありません。 が・・・・
ps・・ジュレイハの姪御さん、マルアに帰ってきて ホッとされているでしょう。
子どもたちの故郷が 一刻も早く戦争を終えて おちつきをとりもどしますように。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
& ところで、1月26日の記事 (村長の旅行記・雑記 その19)の、日本の小学校の写真が送られてきました。
どえらい 立派な建物です!
マルアの日本の小学校
村長の旅行記/雑記 その20 2008年 2月
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寒いといわれる極楽のマルアから (2008年2月2日 記)
こちら、本日は、ひさしぶりに30度までのぼりました。
こちら、連日、明け方20度をきります。
わたしの家の回りは、たてこんでいるので、直接寒風がふいてくることはありません。
ここより数百メートルたかいところにあるモコロでは、気温が12,3度までさがるらしいです。
ここマルアでは、場所によっては15度くらいまでさがるところがあるそうです。
マルアの人たちには、暖房器具などないので、ほんとうに寒い毎日なのです。
寒さというのは、だいたいのところ相対的なものですから、ここの人たちのいっていることは、ただしいのです。
いつもよりも、寒いのです。
ここで一番暑い季節の昼下がりには、四十数度になります。
それからすると、寒いのです。
BBCなどのニュースによると、聖地エルサレムにも、雪がふっているそうですね。
ところで、こちらのフルベ族のことばに雪ということばがありません。
雹(マリマッロージェ)ということばがありますが、こちらでは、ピンポン玉くらいのおおきさの雹がふるので、
雹ということばを雪の代用につかうとえらいことになります。
こちらの雹も、日本人にはわかりません。
ある年の雨季に、マリマッロージェがふったそうです。
ピンポンくらいのおおきさの雹が空からふってきたそうです。
その雹にやられてたくさんの鳥が死にました。
家畜も、たくさん殺されました。雹がおちてくると、トタンに穴があきました。
もっとも、雹は数分間つづくだけです。
雹にしろ、雪しにしろ、結局のことは、水の変形です。
でも、雹の経験しかなく、雪の経験のない人に、雪がなんであると説明するのは、至難の業です。
その逆も、またしかり。
いまから、四十年以上まえに北アフリカで、雪のなかで草をさがしているラクダをみました。
トナカイでもあるまいし、雪のなかで、草をさがすなんて普通の人には、かんがえられないことですね。
ないものを説明することほどむつかしいことはありません。
キリスト教の「愛」というのは、ギリシャ語のアガペーに相当します。
これは、性愛エロス、愛好フィリアとは、区別されています。
このキリスト教のアガペーも、説明できないむつかしいことばなのです。
わたしは、ここの人たちに、
「実は、おまえさんたちは、気候のよい極楽にすんでいる」といって、あるいています。
あしからず。
どうか、お元気で、この寒さをのりきってください。
2008/2/2
村長の旅行記/雑記 その19 2008年 1月
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有尾人 (2008年1月28日 記)
マルアでいままできいたことのない話なのですが、尾っぽのある人がいるというのです。
マタカム族の話をきいていると、尾っぽをもつ人の尾っぽが呪術的力をもっていて、人を殺すというのがでてきました。
はじめは、それがなんであるかさっぱりわかりませんでした。
でも、隣のアンドレさんが、以前、尾っぽをもつ人の話をきいたことがあるというのです。
それで、アンドレさんがその話をきいた、ドゥルンガスおばさんの夫、ピエールさんのところにでかけていきました。
そうすると、間違いなく自分の目でみたというのです。
ドゥルンガスおばさんも、みたことがあるといいました。
ピエールさんは、
「自分が病気でござのうえでねていた。その横に、尾っぽをもつという人がやってきた。
自分は鏡をだして、その人にしられないようにお尻のしたにもっていった。
すると、長さ5,6センチほどの赤い色の尾っぽがついていた」 というのです。
マタカム族は、この尾っぽをもつ人は、子どものころに、儀礼をして、その尾っぽが人を傷つけないようにするのだそうです。
そうすると、一生その尾っぽはわるいことをしないといいます。
ドゥルンガスおばさんによると、女性がもっている尾っぽは人を殺す力があるが、
男性のもっている尾っぽは、その力がないそうです。
ウンマハーニおばさんによると、フルベ族のなかにも、尾っぽをもっている人がいるそうです。
民族差がないといいます。
そういうことで、このへんの人にきくと、自分の目で見た人がけっこういます。
自分の身内に尾っぽのある人がいるというのは、きいたことがあるというよりよりたしかでしょう。
わたしは、尾っぽをもった人をみたことがありません。
でも、手や足に指が六本ある人はよくみます。
フルベ族のあいだでは、六本目の指をもっている人をチンドとよび、六本目の指が富をかきあつめるといいます。
これ以上、この話をするのはよしましょう。
アフリカでは、裸体をみる機会がおおかったからこういう話がいくらでもきけるのでしょう。
これは、人権に関わる話だからです。
こういうことは、しずかにそっとしておくほうがいいからです。
これについて、話をききたい人は直接小生に声をかけてください。
2008年1月28日
事務局から ![]()
ということだそうです。
またお帰りになってから、詳しいおはなしを うかがいましょう・・・
村長の旅行記/雑記 その18 2008年 1月
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マルアの日本の小学校 (2008年1月26日 記)
マルアに日本の小学校がたちました。
昨年、ここにきたら、日本人が小学校をたてる準備をしているという話をききました。
今年きてみると、マルアに小学校が三箇所にできているというので、いちばん近くにある小学校にいってみました。
なるほど、二階建ての素敵な小学校ができていました。
校庭には、カメルーンの国旗のよこに日章旗もあげてありました。
カメルーン人は、それを飾りの一種だとおもっているらしいです。
日本における国旗問題などしっているわけではないですから、それでよいのでしょう。
そこにあった、三つの校舎は周りのものにくらべると、くらべものにならないほどいいものでした。
水洗ではありませんが、ちゃんと屋根のあるトイレもつくってありました。
子どもたちがあのような校舎で勉強しているとおもうと、たいへんうれしくおもいました。
ここでは、教室がたらないので、ときには、一クラスに百人以上がつめこまれることがあります。
とうぜん、椅子がたりないので、子どもたちは、コンクリートの床にすわらなくてはならなくなります。
教師の数も、教室の数もたりないので、一日を午前と午後にわけて授業をしています。
このような素敵な校舎が北部カメルーンの奥深いマルアにできたのは、うれしいのですが、
この校舎の建設をめぐって疑問がでてきます。
この国の125フランの切手に、左上にこの国の大統領、右上に日本の当時の首相、その下に両国の国旗、
その下にマルアにたっているのとおなじモデルの校舎の写真が印刷されたものがあります。
これは、すでに数年まえのものです。
いいですか、よくきいてください。
この国の南には、全人口の六割、北には、全人口の四割がすんでいます。
南には、日本の援助で、正式な数字はわかりませんが、数百の校舎がたてられています。
それも、この切手の発行された数年まえにです。
ところが、北部には、今回やっと、三つ校舎がたっただけです。
南も北もおなじようにまずしいのですから、おなじようにしてほしいのです。
北部カメルーンの雨季は6,7,8,9月が中心になります。
これは、学校が休みの時期とかさなります。
だから、屋根のついた校舎がいらないともいえます。
でも、乾季にだって雨のふることもあります。
木のしたや、掘っ立て小屋で授業をすれば、風がふいてきてさわやかだ というような言い訳はこまります。
じつは、前任の日本大使がマルアにこられたとき、このような不平をのべたのです。
そうしたら、この国に援助をもってくるのが、大使の役目で、
その援助がどこにいくか、どのようにつかわれるのかは、この国がきめるとのことでした。
でも、わたしは、納税者の立場から、
援助国も、援助がどのようにつかわれたら 日本の納税者を納得させることができるか、
援助をうける国につたえる必要があるとつたえました。
そのとき、かんがえてみる とのことでした。
いまは、後任の大使で、マルアの小学校ができるとき、贈呈式にやってきて、
マルアの王さまにフルベ族の服をもらったり、ウマにのせてもらったりして、
ご機嫌で首都までかえられたそうです。
まずは、マルアに小学校がたったので、よろこんでいます。
でも、これでは、納税者として、まだまだ、納得がいくものではありません。
わたしの周りの人たちも、おなじ意見です。
近々、写真をとって、おおくりする予定です。
江口一久拝 (2008/1/26)
事務局から ![]()
まいどの日本からの援助事情です。
援助金がうまく機能するように、日本国民はもっと援助先の状況を知る必要があります。
それにはまず、実状を伝えてもらわなければなりません。
マスコミも、もっとそんな記事を増やしてもらいたいのですが、
カメルーンのこんな事情は、村長に教えてもらわなければ、知る手だてさえありません。
陸続きの国は、となりの地の事情に直接影響を受けてしまうから 敏感にならざるを得ませんが、
日本は島国なので、となりは海の向こう。
いったん海を渡って行ってしまったものに目を向けようとしません。
無関心は、無責任です。
島国は生態系でも脆弱です。何かがおこれば あっというまに全体に蔓延してしまいます。
海の向こうで何がおこっているかに、もっと目も心もむけるべきなのに・・・
村長の旅行記/雑記 その17 2008年 1月
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アーイの結婚 (2008年1月23日 記)
この近くにアーイという色の白いフルベ族の人がいます。
このアーイの年齢はよくわかりませんが、
わかっていることは、わたしがアーイの子どものときからしっていること、
アーイはドゥアラで結婚生活をおくり、四人の子どもをもうけたけれど、
夫と仲がわるくなってマルアにかえってきたことだけです。
子どもの写真もどこかにあります。そのうちにお目にかけましょう。
アーイは子どもたちのところにもどりたかったのですが、その望みがかないませんでした。
こちらにもどってきて、二、三年になるでしょうか。
ついこのあいだ、ナイジェリアのフルベ族の都、ヨーラの王さまの息子との婚約がととのったのだそうです。
相手の人は、アーイに自動車を一台、ウシ一頭、そのたもろもろのプレゼントをしたのです。
アーイの父親にも、自動車をおくりました。
あたらしい家を父親のためにもたてました。
あとすこしで、嫁入りします。マルアの人たちには、それが、たいへん気になっています。
長続きのしない結婚のために(こちらではそうなのです)、
これほどのプレゼントをするのにはわけがあるとおもっています。
マルアの人びとのおおくは、ナイジェリアは食人の国、魔術のために殺人をする国ということになっています。
だから、アーイがそのプレゼントをだしに、
なにかよからぬことのためにつれていかれるのではないかと心配しているのです。
そういわれると、わたしも心配になります。
アーイの話によると、第四番目のよめさんになるそうです。
アーイはいつまた先回とおなじようになるかもわからないので、あまりこの再婚に期待していない様子でした。
一夫多妻制度が、離婚を促進するわけではありませんが、簡単な結婚が、簡単な離婚をうむのは当然のことです。
父系制のおかげで、離婚後は子どもは父親のもとにのこります。
だから、女は身軽に再婚ができます。
でも、子どもとは、はなれなければならないので、母性愛が傷つきます。
アーイの母親も、アーイが小さいときに父親と離婚。
だから、母親と子どもの関係はここでは、無視されっぱなしです。
また、そのうちに結婚談義をしましょう。
きょうは、これくらいに。
アーイ、ずいぶん貫禄がでてきました。
2008/01/23 江口一久拝
事務局から ![]()
アーイさん・・・母子が会えないのは つらいですね。
アフリカに継子話がたくさんあるのも、こんな社会だからでしょうね。
継子のクンボちゃんに、わが身の上をかさねてきいている子どもは、多いんでしょうね。
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村長の旅行記/雑記 その16 2008年 1月
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昔話的うそ (2008年1月17日 記)
こんにちは。
わたしはあいかわらず、毎日、ドゥルンガスおばさんの昔話をたのしんでいます。
いままでながいあいだ、昔話をきいて、それを鑑賞するということはせず、あくせく、それを文字におこし、
文字におこしたものを翻訳したりすることがおおかったのですが、
最近は、それを味わったり、その内容をながいあいだこちらの人たちとディスカッションするようになりました。
マタカム昔話についての結論は、いまだにでずじまいですが、すくなくとも、ここにおける昔話について、
つぎのようなことがいえるのではないかとおもっています。
昔話はかたられるものです。
これは、かかれているものではありません。
ご存知のように、このへんの昔話には、力を行使するおっそろしいライオンがでてきたり、
一見ずるかしこくみえるウサギやリスが登場します。
これは、いったいなになのでしょうか。
これは、この社会の現実どのようにいきていくべきかを、ライオンや、ウサギやリスをつかってしめしているものです。
この現実というのは、昔話の世界の現実でしょうか。
そうではありません。
まさに、二十一世紀の現在の現実なのです。
ここの昔話はけっして実生活からはなれているということはないのです。
ここにいると、人がだれかにだまされる、ちょろまかされるというはなしを日常茶飯のようにきくことができます。
わたしだって、そうたびたびではありませんが、後味がすっきりしないような経験をさせられます。
どれをみても、いままできいてきた昔話のケースとおなじようなものにみえてきます。
逆にいうと、かれらの生活のなかに昔話がいきているということです。
キリスト教徒は、バイブルを毎日よんで、人生の指針をたしかめます。
たとえそのなかの教えが、「なんじの敵を愛せよ」などと、不可能にちかいことであっても、
そうあったらとおもっています。
バイブルの教えと行動のあいだには、おおきな溝があります。
また、バイブルの教えをちょっとはなれたところからみて、その内容を講評することもあります。
ここにいるフルベ族やマタカム族は、昔話のなかのずるがしこいリスのことを よいものではないといいます。
けれども、実際には、あやういときに保身のために、自分自身もリスになるのです。
そうして、現実の問題をすりぬけるのです。
だから、かれらにとって、昔話は、キリスト教徒たちにとっての
バイブルのようなものに相当しているといってよいのではないでしょうか。
キリスト教徒はバイブル至上主義であっても、けっしてそれにいきていません。
けれども、ここの人たちは昔話にいきているわけですから、
キリスト教徒より自分たちの「バイブル」である昔話を 大事にしているといえます。
わたしたちは、近代教育をうけます。
そのなかには、ローマ帝国を維持していくための法律、のちには、ナポレオンがつくった法律などの基礎的なものがふくまれています。
これは、昔話でもなく、バイブルでもなく、市民の法律です。
人が市民としていきていくために、権利を保障されたり、義務をおったりしますが、そういうことをならうのです。
そのなかで、いちばんいやがられているのは、偽証です。
つまり、「うそをつく」ということです。
ところが、昔話の英雄の特技は、うそです。
だれがかんがえても、すぐにばれるうそです。
ところが、この二十一世紀にも、この「昔話的うそ」がはびこっています。
わたしたちは、公教育をうけているので、ここの人たちの「昔話的うそ」を経験させられると、気分がわるくなるのです。
ここマルアはなぜいきのこっているかというと、西にナイジェリア、東にチャド、中央アフリカなどの国があり、
その地理を利用した商売ができるからです。
この商売は、生活のありとあらゆるものが、その対象になります。
最近問題になっているのは、主食のモロコシ(コーリャン)です。
隣のナイジェリアにもっていくと、高く売れるので、地元のものをかきあつめて、国境をこえるのです。
結果、地元民がたかいモロコシをたべなくなります。
これを防止するため、躍起になっています。
でも、もちろん、本気でそれを防止しようというわけではないので、あいもかわらず、モロコシは流出するでしょう。
というのは、ここの商売人の心の奥底には、ちょうど昔話のなかに国が存在しないとおなじように、公の利益の考えがありません。
自分自身の困難さえのりきればよいとおもっているからといえます。
この近くで小生が尊敬している商人がいます。
この商人は、近隣諸国はもちろんのこと、遠くはセネガル、アンゴラまででかけていったことのある人です。
パスポートは、数カ国のものをもっているし、フルベ族にしては、めずらしく数種類の言語をはなせます。
このかれとたちばなしをしたとき、
「いまは、ナイジェリアからの品物をまっている。それがついたら、それを中央アフリカにもっていく。
一番大事で、税関にみつかってこまる品物は、トラックの荷台の一番した。
そのうえに、ピーナッツの袋をおき、そのうえにタマネギをのせる。
みつかったらそのとき、一番大事な品物の税金をはらえばよい。 でも、ほとんどみつかることがない」
ということでした。
フルベ族の昔話に、「マルアの盗人とガルアの盗人」というのがあります。
それぞれが、袋の一番うえだけ本物をいれておき、したには、ごみをつめておきます。
それぞれが、得をしたとおもって、あとで袋をあけてみると、したにはごみがはいっていたという話です。
マルアの国際的な商人も、結局のこと「昔話的手法」をつかっているということです。
まあ、この人のことがきにかかったので、この一文を書く気になったというわけです。
かけばいくらでもかけるのですが、このへんでとめておきます。
江口一久拝 ( 2008/1/17 )
ps.おなじみのジュレイハがやってきたので、写真をとりました。
みなさまによろしくとのことでした。 毎日忙しいのだそう